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『プリザーブドフラワー』 第五章

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『プリザーブドフラワー』



平田はドアをノックした。
返答はない。
恐る恐るそっとドアを細く開くと、病室は窓から射し込む西日で、壁も床も燃えるような茜色に染まっていた。

部屋の中央にベッドが一つ置かれている。
そのベッドを取り囲むように医療機械が並び、無機質な信号音を間歇的に響かせていた。

ベッドに寝ていた葉子が小さく動いた。

平田は無言で頭を下げた。
全身を医療器械のコードで縛られた葉子は、痩せこけた顔を平田の方へ向けた。

「ひ、平田部長・・来てくれたの・・」

「・・よ、葉子」

平田はやっとそれだけ口にすると、凍りついたようにその場に立ち尽くした。

変わり果てた姿だった。
豊満な肢体を誇っていた葉子が、一回り縮んで干からびたように小さくなっている。

「ここへ座って・・」

葉子は枕元に置かれた椅子を手で示した。
そのパジャマから覗く上腕が、ミイラのように骨と皮ばかりになっている。
そして腹水が溜まっているのか、餓鬼のように腹だけが膨らんで見えた。

平田は病に侵された葉子をある程度想像していた。
だがここまで残酷だとは信じられなかった。

平田は仙台へ来たことを後悔した。
かつての愛人に、痩せこけてしまった自分の姿を見られることが、葉子にとってどれほど苦痛なのか考えもしなかったからだ。

平田は涙腺が弛むのを感じて、強張る筋肉で無理矢理笑顔をつくった。

つづく…

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『プリザーブドフラワー』第四章

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『プリザーブドフラワー』



長い廊下が続き、その突き当たりに、葉子が闘病生活を送る病室の扉がある。
十メートルほどの直線だが、そこへは永遠に辿り着けないような距離感があった。

平田の心には、葉子から逃げた罪悪感が深く根を張っていた。

「葉子・・」

平田は自分を勇気づけるように小さく呟いた。

冷たい靴音が響く。
やがて目の前に聳え立った鋼の扉は、明らかに平田が中へ入ることを拒んでいるように見えた。

葉子は夫と離婚した後、五十一歳になる今日まで独りで生きてきた。
社内で浮ついた男の噂もなかった。

葉子の両親は疾うに他界していた。
この病室の奥で、誰にも見守られることもなく、葉子は独り病魔と闘っている。

平田は、己の不誠実さがもたらした後ろめたさに、ただただ扉の前で煩悶するしかなかった。

葉子は末期癌と宣告されていた。
十年前、葉子が乳癌で一年間会社を休んだのは知っていた。

左乳房は切除したものの、今すぐ生死に係わることはないと耳にしていた。
癌の部位が部位だけに、平田は見舞いに訪れなかった。

治癒して日常生活に戻った葉子だが、密かに癌細胞は体の中で増殖を繰り返していた。
骨に転移していたのだ。

再び放射線治療が始まったが、すでに体中に広がった癌細胞は、医学の力ではもう取り除くことはできなくなっていた。
葉子には麻薬で痛みを和らげる治療しか残されていなかった。

もう数週間の命だと医師から宣告されているらしい。
山田の話では、麻薬のためにうつらうつらしている時間が多く、調子が良い時でなければ面会も難しいと言う。

つづく…
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『プリザーブドフラワー』第三章

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『プリザーブドフラワー』


二人の逢瀬は週一回、会社が退けた後のホテルで重ねられた。

「このまま時間が止まればいい」

それが閨での葉子の口癖だった。いくら気丈でも女は女。

夫へ背を向ける孤独を、趣味のフラワーアレンジメントだけでは埋める術もなく、心の支えを平田に求めずにはいられなかったのだ。

そんな葉子の苦悩を、平田は陰ながらでも支えたいと願った。

だが二人だけの濃密な時間を重ねるに連れ、平田の心は袋小路へと追い詰められていった。
むろん葉子への想いは遊びでも憐憫でもなかった。

だが妻子と決別するほどの熱情を持ち合わせていない平田は、次第に葉子の存在が鬱陶しく覆い被さってくるのを感じた。

恋に全てを捨てられるほど若くはなかった。
葉子の想いに応えられない不実さに、平田は独り苦悩させられる日々が続いた。

葉子との蜜月は二年で終わった。
正式に別れを告げたわけではなかったが、平田が東京本社へ栄転したのを機に、二人の関係は自然消滅した。

平田は葉子を振り返らなかった。
課長に昇進した平田には、この先本社で実力を認められれば、薔薇色の出世街道が開けていた。
葉子との関係を東京まで引きずって行くわけにはいかなかった。

それにも増して平田が別離を望んだ理由は、葉子が夫と離婚したことにあった。
葉子は平田を愛したからとは言わなかった。

だが平田の存在が、葉子の決断を促したことは否めなかった。
平田は葉子を恐れた。
独りになった葉子から結婚を強いられれば、順風な平田の人生は足元から崩れかねない。

ところが葉子は平田に何も求めなかった。
仙台を去る平田を葉子は静かに見送ってくれた。

それが却って平田の心に苦味を残した。
別れたくないと泣いて縋られた方が、どれほど楽だったろうか。
二人はその後、平田の仙台出張で顔を見合すことはあっても、プライベートで会うことは二度となかった。

つづく…
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『プリザーブドフラワー』第二章

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『プリザーブドフラワー』

2 
平田と駒木葉子は、かつて不倫と世に疎まれる関係にあった。
社内でも不倫はご法度になっている。二十年前の不徳義ではあるが醜聞に時効はない。

もし今、二人の関係が露見すれば、役員昇格レースの先頭を走る平田の致命傷になりかねない。
だがそんなリスクも重々覚悟の上で、平田は葉子の見舞いに駆けつけたのだった。

三十代半ばの営業係長時代、平田は仙台支社で三年間勤務していた。
当時、すでに妻も子もいた平田だったが、経理課に勤務する葉子と恋に落ちた。
四歳年下の葉子もまた、結婚したばかりの新妻だった。

凛として端正な顔立ちをした葉子は、ショートヘアが似合うボーイッシュな感じの美人だった。
容貌に違わず、性格も男勝りで気が強く、妻と言う添え物の座に、大人しく縛られている女ではなかった。

二人は仙台支社の忘年会で意気投合し、その夜にはホテルで肌を重ね合わせていた。
北国育ちらしく、葉子の肌は青い月のように冷たく澄んでいた。

しかし子供を産んでいない三十路の豊穣な肢体は、一度平田に抱きすくめられると、その欲情を灼熱のマグマのように熱く噴き上げた。
猛り狂う葉子の熟肢は、まるで夫へ復讐でもするかのように、平田の体へ何度も何度も絡みついてきた。

葉子は結婚を後悔していた。
三十路を前に婚期を焦った葉子は、親戚の勧めで見合いした男を、熟慮することなく伴侶に選んだ。

確かに夫は人も羨む高学歴の銀行員だった。
ところが仮面を脱いだ夫は、我が儘な亭主関白で、葉子を住み込みの家政婦兼乳母としてしか扱わなかった。
自由は全て奪われ、ロポットのように家庭へ傅くことを強いられた。

子供ができるまで会社勤めは許されたものの、この先何十年もこの夫に尽くすのかと思うと、葉子はぞっと鳥肌立つ思いがした。
もし子供ができて家庭に閉じ込められたら、間違いなく気が狂ってしまうだろう。

絶望に打ちひしがれた葉子にとって、平田は人生に風穴を開けてくれる救世主だった。
そして柔肌の深奥に息づく熱情の捌け口でもあった。
つづく…
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『プリザーブドフラワー』 第一章

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『プリザーブドフラワー』

1.
古めかしい大学病院は、窓から差し込む西日で茜色に染められていた。
消毒薬の匂いが立ち込める病棟には、晩夏だと言うのに、どこかひんやりと冷たい空気が澱んでいる。

平田武夫は、真っ直ぐに続く廊下を、コツコツと靴音を響かせながら歩いていた。

「平田部長。駒木葉子さんの病室は、突き当たりの205号室です」

隣を歩く仙台支社の山田経理課長が、平田の顔色を窺うように小声で告げた。

「わかった。悪いが君はさっきの待合室で待っていてくれないか」

「心得ております。本日部長が訪れられたことは一切他言致しません。ではお気兼ねなくお見舞い下さい」

山田は訳知り顔で頷くと、下僕のように身を屈めたまま背後へ消えて行った。
平田は振り向きもせず、山田の卑屈な立ち振る舞いに舌打ちした。

平田武夫は現在五十五歳、大手食品会社の東京本社で営業部長を務めている。
次期役員候補と目されている平田は、分刻みの過密スケジュールをこなす激務を負っていた。

その多忙な営業部長が、支社の経理課に勤務する一人の女性を、わざわざ遠く仙台まで見舞いに来たのだ。
いかに重病であるにせよ、ただならぬ事情を邪推するのは無理からぬことかもしれない。

山田の顔には、今を時めく平田の秘密を知った優越感と、それを守ろうとするサラリーマンらしい忠誠心が見て取れた。

つづく…

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「妄想の座敷牢」 更新のお知らせ

「妄想の座敷牢」 更新のお知らせ

今回の作品は「プリザーブドフラワー」です。

このお話は「色褪せぬ薔薇」の原作であり、実話を基に書かれました。

『色褪せぬ薔薇』は昔、『特選小説』という雑誌に掲載した作品で、

現在、「妄想の座敷牢」に掲載しています。

心切なくなる話です。

一生に一度でいい、心から愛せる人に出会えたら…

女は愛に幸福を重ね、愛しい人の記憶の中で永遠に輝き続けるのだと思います。
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プロフィール

紅殻格子 

Author:紅殻格子 
紅殻格子は、別名で雑誌等に官能小説を発表する作家です。

表のメディアで満たせない性の妄想を描くためブログ開設

繊細な人間描写で綴る芳醇な官能世界をご堪能ください。

ご 挨 拶
「妄想の座敷牢に」お越しくださいまして ありがとうございます。 ブログ内は性的描写が多く 含まれております。 不快と思われる方、 18歳未満の方の閲覧は お断りさせていただきます。                
児童文学 『プリン』
  
『プリン』を読む
臆病で甘えん坊だった仔馬は、サラブレッドの頂点を目指す名馬へと成長する。
『プリン』
だが彼が探し求めていたものは、 競走馬の名誉でも栄光でもなかった。ちまちました素人ファンタジーが横行する日本の童話界へ、椋鳩十を愛する官能作家が、骨太のストーリーを引っ提げて殴り込みをかける。
日本動物児童文学賞・環境大臣賞を受賞。
『プリン』を読む

作 品 紹 介
※ 小説を読まれる方へ・・・   更新記事は新着順に表示されますので、小説を最初からお読みになりたい方は、各カテゴリーから選択していただければ、第一章からお読みいただけます。
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