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『捨 て 犬』 第一章

捨て犬

「強い男に抱かれたい…」 弾む息の合間、
英子は伏し目がちにそう呟いた
梅原は初めて英子から女の匂いを嗅ぎとり… 

『捨 て 犬』
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(一)

午前十時半。
千葉県北部にある都心のベッドタウン。

朝の通勤客を慌しく送り出した街は、がらんとして、廃墟のような静けさに包まれていた。
昼になれば、格安ランチを漁る主婦連中で賑わうのだろうが、今は駅前の繁華街も人通りがなく閑散としている。

梅原康彦は、芳しいコーヒーの香り溢れる喫茶店で、ぼんやりと窓の外を眺めている。

「お待ちどうさま」

ママが熱いブレンドをテーブルに置いた。

「ありがとう。今日も寒いね、ママ」

「天気予報だとお昼から雪みたいよ」

水商売上がりで、まだ夜の色香が抜けきらないママは、四十路女のよく熟れた尻を、ぷりぷりと振って厨房へ戻って行った。
梅原はその後ろ姿を覗き見ながら、熱いコーヒーを静かにすすった。

新東京薬品という業界中堅の製薬会社に籍を置く梅原は、その千葉支店の営業課長として、ここ、常磐線沿線の病院と開業医を担当していた。

製薬会社は営業社員のことをMR(医薬情報担当者)と呼ぶ。
一般には馴染みの薄い特殊な職業だ。

人の生命に関わる医薬品を販売するには、医師への正確な薬剤情報の伝達が欠かせない。
そのため薬学は勿論、医学についても、医師と同等レベルの知識がMRには要求される。
現在ではMR資格試験に合格した者でなければ、医療機関で営業活動ができない決まりになっている。

木枯しとともに、スーツ姿の若い男三人が喫茶店に入ってきた。

「おはようございます」

彼らは梅原に挨拶すると、カウンター席について雑談を始めた。

他社のMRだった。

同じエリアを担当するMR同士は、訪問する病院や開業医の数が限られているので、たいがい顔見知りになっている。
そして医師が患者の診察に忙しい午前中は、訪問できる病院も少なく、溜まり場の喫茶店で情報交換をしながら時間を潰すことが多い。

梅原は彼らの雑談に耳を挟みつつ、鞄から経済新聞を取り出した。
今朝もリストラ記事の見出しが、紙面のあちこちに躍っている。

(日本人は節操がない)

乱暴に紙面を飛ばし読みしながら、梅原はやるせない呟きを繰り返した。

一昔前であれば、従業員の生活を守ることが経営者の務めだった。
ところが今日では、猫も杓子もリストラ、リストラと騒ぐ。
儲かっている会社でも流行に乗り遅れまいと、率先して社員の首を切ろうとする。

(ろくに診察もしないで、風邪薬を出す医者みたいなものだ)

暗鬱とした気分になって新聞を放り出し、梅原は目を瞑ったまま煙草をくわえた。

今年五十歳を迎える梅原に、リストラは対岸の火事では済まされない問題だった。

つづく…

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『捨 て 犬』 第二章

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(二)

若いMRに続いて、ライバル製薬会社の早坂和久が入ってきた。

「おう、早さん、今朝は遅いじゃないか」

梅原が声をかけると、早坂はママにコーヒーを注文して同じテーブルに座った。
取引先の病院では火花を散らす間柄だが、年が近いこともあって、仕事以外では彼と妙に馬が合う。

「今朝は本社から人事部が来てさ、早期退社制度の説明があったんだよ」

早坂はおしぼりを取り、冬だと言うのに脂性でテカテカした額を拭いた。

「お宅もいよいよか…」

「ああ、五十歳から五十五歳の社員が、早期退社制度の対象になるらしい。もし早期退社を希望すれば、退職金に年収の二年分が加算される仕組みさ、梅さんとこは?」

「うちもほとんど同じだけど、それに加えて役職定年制度があるよ。五十五歳になると、役職を取られて平社員に格下げされるんだ。給料も三割カットだよ」

「本当にひどい話だな。年寄りは働かないと決めつけたような制度だ!」

血圧の高い早坂は、髪に薄い頭までかっと赤く染めた。

その時、ママが早坂のコーヒーをテーブルに運んできた。

「あら、早坂さん、早期退社するの?」

「冗談じゃないよ。うちはまだ子供が中学生だし、家のローンも残っているんだから」

「でも本人が残りたくても、会社からいびり出されるんでしょ」

心臓に針を刺すような言葉を、ママは平然と言ってのけた。
そうでなくとも、昨今の中高年サラリーマンいじめはひどい。

給料が高い割に働かないとか、パソコンも使えない時代遅れとか、会社が公然と誹謗中傷する。そんな針の筵で居眠りを続けるには、かなりの勇気と度胸が必要だ。

ううむ、早坂は腕組みして唸った。

「もしそうなったら、俺、この店でママに雇ってもらうわ。もちろん夜もベッドの上でママのために働くよ」

と、早坂は目にも留まらぬ早業で、脂の乗った弾力のある尻を撫でた。

「やだ、早坂さんのエッチ」

小娘のような声をあげたままは、まんざらでもない仕草で早坂の背中を叩いた。
脈ありと見たのか、早坂は、早期退社の話を忘れてママを口説き始めた。

「おいおい、朝から元気だな」

梅原は早坂の明るさを羨ましく思った。
彼ならばその持前のバータリティーで、残り十年の厳しいサラリーマン人生をまっとうできるに違いない。

梅原は再び窓の外に目を遣った。
灰色の雲が空一面に垂れ込め、街路樹の枯葉が木枯しに追われて逃げ惑っている。

(早期退社か…)

梅原は心の中でそっと呟いてみた。それも人生の選択肢のひとつに違いない。
サラリーマン人世の終盤に至って、梅原はひどく疲れを感じ始めていた。

つづく…

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『捨 て 犬』 第三章

『捨 て 犬』

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(三)

天気予想は思ったより早く的中した。

喫茶店を出て営業車に乗った途端、猛然と牡丹雪が降り始めた。
視界の悪さから、市内を抜ける幹線道路は、徐々に渋滞の様相を呈してきた。

時計を見ると、十一時四十分になろうとしている。
十二時に一件、重要なアポイントが入っている。いつもなら十分もあれば着く場所である。

信号待ちで焦れながら、梅原は何気なくルームミラーに自分の顔を映してみた。
目立って白髪が増え、皮膚の張りを失った顔には、無数の小皺が刻まれている。
それよりも驚いたのは、顔の表情からすっかり生気が失せてしまっていることだった。

肉体の衰えを実感するのが厄年にあたる四十代ならば、精神の衰えを実感するのは五十代なのかもしれない。

(もう若くはない…)

梅原は、こつこつと粘り強く医師を口説くのを信条としてきた。
断られても断られても日参し、医師を根負けさせて薬を使ってもらってきた。

しかし最近、その根気が萎えつつあるのを梅原は自覚していた。
重ねて早期退社制度の存在が、会社への忠誠心と仕事への熱意を揺るがせている。
残り十年のサラリーマン人生を、こんな状態でまっとうできるのかと、梅原は内心自信を失っていた。

渋滞する幹線道路を外れて車の少ない道に入ったが、うっすらと雪が積もった路面のせいで、思うようにスピードが出せない。

時計はすでに十一時五十分を回っている。

(間に合わないか…)

梅原は焦った。

―富岡クリニック―
そこは鬼門と恐れられる開業医だった。

院長の富岡英子は、MRの間で『鬼婆』とあだ名されていた。
今朝も喫茶店で、若いMR達が噂するのを梅原は耳にした。

「昨日新製品を紹介していたら、説明が下手だって怒鳴られたよ、あの鬼婆に」

「俺もこの間、販促品のボールペンを渡したら、こんなものをつくる金があるなら、もっといい薬を開発しろって投げ返されたよ」

「最近、ヒステリーが前よりひどくなったんじゃないか?」

「うん、毎日が生理中みたいなものだろ」

「いや、三十八歳でもう更年期障害かもしれないぜ」

彼等は不満をはらすように大笑した。
だがMRにとって、富岡クリニックは避けて通れない重要な得意先だった。

それは開業医でありながら、中小病院に匹敵する患者数を抱えている上、金に糸目をつけず高価な薬剤を使ってくれるからだ。

製薬会社にすればまさに上客中の上客なのだ。
しかも英子は、喘息治療の専門医として県下でも名が通っており、医師人脈からもその存在を無視することはできなかった。

梅原もこの女医を苦手としていた。
医師としては優秀なのかもしれないが、女だてらに傲慢な態度をとるのが気に入らなかった。

しかし自社の喘息治療薬を大量に使ってもらっているため、絶対に機嫌を損ねられないドクターだった。
過去何度か横っ面を張り倒したい衝動にも駆られたが、ベテランMRとしての意地が、辛うじて梅原を我慢させてきた。

つづく…

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『捨 て 犬』  第四章

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(四)

しかし若いMRたちが揶揄する通り、最近の英子の不機嫌さは度を越えていた。

噂では、クリニックの事務方を一任していたベテラン女性の結婚退職が原因らしい。
後任の育成もおぼつかないまま、英子自身が事務も兼務する状態が続いており、その多忙さでヒステリックが悪化していると言う。

また別の噂では、夫婦仲がかなり悪くなっているからだとも言われている。

英子は三年前、五つも年下の若い男と結婚した。
彼は売れない写真家で、生活の糧を英子に頼っている。
結婚当初は芸術家の妻として我慢もできたのだろうが、いつまでも自立できない夫に業を煮やしていさかいが絶えないらしい。

梅原には英子の私生活などどうでもいいのだが、そのとばっちりが身に降りかかることだけは避けなければならない。

(遅刻はまずいぞ)

梅原はハンドルを握る手が汗ばんでくるのを感じた。

富岡クリニックのドアを開けた時、約束の時間を十分ほど過ぎていた。

待合室は会計を待つ患者が一人残っているだけで、がらんとして不気味に静まり返っていた。
窓口で顔見知りの薬剤師に挨拶し、梅原は診察室の扉を開けた。

「失礼します」

広い診察室で、英子はポツンと机に向かって食事をしていた。
来訪者に振り返ろうとしない。
梅原はその白衣を背中にかなりの怒りを見て取った。

「先生、遅れて申し訳ありません。雪で渋滞していまして…」

その言葉にピクッと英子の肩が震えた。

「何を言っているの!子供の使いじゃあるまいし、くだらない言い訳なんかするんじゃないわよ!」

振り向きざま、英子は梅原に罵声を浴びせかけた。

髪を無造作に束ねた化粧っ気のない顔は、鬼婆に相応しい憤怒の表情をしていた。

英子は決して不器量ではない。むしろ美人の部類に入る顔立ちだ。
だがその端正さが、却って怒りの表情を凄惨に見せている。

「本当に申し訳ございません」

梅原は海老のように腰を折り、ただひたすら詫び続けた。

「謝って済む問題じゃないわ。あなたが十二時に面談を申し込んできたでしょう?こっちは忙しいのに時間を空けて待っていたのよ。それを何の連絡もなしに、十分も遅刻するとは何事なの?非常識よ!」

英子の言い分は正しい。時間に遅れた梅原に非があるのは確かだ。
だがそのヒステリックな物言いに、不快感を禁じえなかった。

「お許し下さい、先生」

梅原はぐっと堪えた。 ここで英子に臍を曲げられては困る事情があるのだ。

つづく…

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『捨 て 犬』 第五章

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(五)

来週、新東京薬品の主催する『小児喘息シンポジウム』が東京で開かれる。
この講演会は、毎年全国から多数の医師を集める一大イベントだった。

今年はそのシンポジウムのパネリストとして、英子を招聘する予定になっていた。
今日のアポイントも、その最終打ち合わせのためだった。

もし臍を曲げて英子が出席しないようなことになれば、会社に大恥をかかせることになるだけでなく、梅原自身の進退問題にまで発展するかもしれない。

英子は視線をカレンダーに向けた。

「確か来週、おたくのシンポジウムに出席することになっていたわね」

「先生、本日はその件でお伺いした次第で」

梅原は内心まずいと思いつつ、英子の顔色を窺った。

「冗談じゃないわよ!こんな非礼を受けて出席しろって言うの?」

「そこを何とか…」

梅原は頭が膝に着かんばかりに謝った。
雪の降りしきるガラス窓に、そのぶざまな五十男の姿が映って見えた。

「ふざけないで頂戴。こんな担当者をよこす製薬会社のシンポジウムなんか、出るだけ時間の無駄よ」

「……」

「全く、いい年をして常識を知らないのね。あなたみたいなMRは会社に迷惑をかけるだけだから、早く辞めた方がいいのよ」

英子は梅原の顔に唾を吐きかけんばかりに毒づいた。

(早く辞めた方がいい)

その言葉だけが耳にこびりついた。
カッと頭が白くなった。

「あっ…!」

梅原の右手が英子の白い頬を打ったのと同時に、英子が短い悲鳴を上げた。

それほど力を入れてはいなかったが、はずみで英子が椅子から転がり落ちた。

梅原は鞄からシンポジウムの案内状を取り出すと、無言のまま机の上に置いた。
食べかけの弁当はコンビニ弁当だった。

それが梅原の胸に突き刺さった。
そして涙目で頬を押さえる英子に深々と頭を下げると、大股で診察室を後にした。

つづく…

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『捨 て 犬』 第六章

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(六)

都心の一流ホテルには、一日の診察を終えた医師たちが三々五々集まり始めていた。
『小児喘息シンポジウム』と横断幕が高々と掲げられたメイン会場は鮮やかな生花がそこかしこに配られ、三百ほどの座席は今や遅しと開演の時を待ち詫びていた。

受付前のロビーでは、MRがずらりと並んで担当地区の医師の到着を待ち受けている。
他社のMRに邪魔されず、日頃忙しい医師を独占できるチャンスとあって、開会前から彼らの面持ちは意欲に漲っていた。

そんな華やかな盛況を、梅原は影のように壁にもたれて見ていた。

(富岡先生は来るのだろうか…)

運営担当者に確認したところでは、今のところパネリストの変更はないと言う。

梅原は苦々しくあの雪の日を思い返した。

富岡クリニックを後にした梅原は、すぐに会社に戻ってあらましを支店長に報告した。

年下の支店長は激怒した。

「MRとしてあるまじき行為だ!」

年上の梅原に遠慮がちだった支店長は、日頃の鬱憤をはらすように罵倒した。
そして会社に害をなす人間など不要だと、遠回しに早期退社を希望するようくどくどと説いた。

MRとしてあるまじき行為であることは、ベテランの梅原も重々承知している。
その件で弁解の余地はない。 
だが社員のミスにつけこんで退職を迫る会社の姿勢に、梅原は怒りと諦めを覚えた。

翌日、梅原は早期退社を申し出た。
それは簡単に受理された。

ただちに富岡クリニックの後任担当者が決められ、支店長とその後任が英子の元に挨拶に行った。 
梅原は一切に表に出るなと言われ、退社時期は来月末にしてくれと要望された。

早坂と違って子供が成人している梅原は、残りの会社人生にそれほど未練はなかった。
夫婦二人なら、アルバイトでも食いつなげるはずだ。
一年くらいのんびりしてから、再就職を探せば上々だと安直に考えていた。

だが妻は烈火の如く激怒した。

「勝手に自分で会社を辞めておいて、何が、夫婦二人ならなんとかなる、よ!」

長年家庭をほったらかしにしてきた梅原の罪を、妻はこれでもかと責めたてた。

「やっと子育てからも解放されて、自分の時間を楽しめると思っていたのに、一年も家でゴロゴロされたら息が詰まるわ」

梅原は妻の本音に愕然とした。 
従順で大人しいはずの妻が、まさか夫の存在をそんな風に考えていたとは俄かに信じられなかった。

「それに老後の蓄えはどうするつもり?普通は子供が成人してから定年までの間に、しっかりと貯金しておくものなのよ。それなのに後先なしに会社を辞めるなんて、狂気の沙汰としか思えないわ。すぐに新しい就職先を探しなさい。さもなければ離婚よ!」

つづく…

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『捨 て 犬』 第七章

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(七)

夢なら早く冷めてくれと、梅原はそっと太股をつねった。
だが目の前にある妻の顔は、ますます般若のように怒気を含むばかりだった。

給料を運ぶしか能のない夫―それは小説かテレビドラマだけの絵空事だと思っていた。
しかし我が家に限ってという梅原の過信は、ガラガラと音を立てて崩れ去った。

梅原は寂しいという感情よりも、恐怖に近い不安に苛まれた。
それは見知らぬ街にぽつんと置き去りにされたような孤独感だった。

(この先、誰のために生きればいいんだ)

会社からも、そして家庭からも必要とされなくなった梅原は、凍える冬の街路をさまよう捨て犬の姿に自分をだぶらせた。

シンポジウム会場の膨れ上がる喧騒に、梅原はふと我に返った。

当初、梅原はこのシンポジウムを欠席するつもりでいた。
だが担当地区の親しい医師たちが出席する都合上、梅原が不在では義理を欠くという配慮から、支店長に出席を命じられたのだ。

それさえなければ英子と顔を合わす恐れがあるこの会場から、今すぐにでも逃げ出してしまいたい心情だった。

担当地区の親しい医師三人に挨拶した梅原は、手持ちぶさたに会場の隅でぼんやりと立っていた。
その時、地味な服装の男性医師の中、華やかな薄桃色のスーツをまとった女性が会場に入ってきた。

富岡英子だった。

梅原はなるべく目立たない位置から、そっと英子の出で立ちを窺った。

(えっ…)

梅原は絶句した。

日頃無造作に束ねていた黒髪は、明るい栗色に染められ、柔らかなウエーブを描きながら、豊かに肩へとかかっている。
すっきりと描かれた眉と、明るい紫色のアイカラーで飾られた瞳は、若い娘には真似できない成熟した女の艶を放射している。

眉間に皺を寄せ、声を荒げてMRを罵倒する鬼婆とは別人の英子がそこにいた。
隣で揉み手をする支店長と話すその口元には、人妻らしいゆとりのある色気が迸っている。

つづく…

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『捨 て 犬』 第八章

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(八)

一瞬、会場を見回していた英子と目が合った。
慌てて視線を逸らしたが、英子は梅原を見つけるとつかつかと歩み寄ってきた。

(仕返し…か?)

梅原は無意識に身構えた。 
英子なら公衆の面前で殴りかかってきても不思議ではない。
しかし英子は梅原の正面に立つと、バックから紙切れを取り出して手渡した。

「きちんと話をつけましょう」

英子はそれだけ言うと、きっと梅原を睨みつけ、踵を返して再び人の輪の中に戻って行った。
英子の去った後、残された甘い香水の匂いに、梅原はしばし呆然とした。

手に握らされた紙に目を遣ると、そこには『九○九号室』とだけ書かれていた。

今夜シンポジウムが終わった後、簡単なパーティーが催される。
英子は家に戻らず、そのままこのホテルに泊まる予定なのだろう。

しかし話をつけるとなればただ事ではない。
英子のことだ。何か梅原への復讐を考えているに違いない。

支店長を同室させて土下座でもさせるのか、或いは弁護士を連れてきて慰謝料を取るつもりか、いずれにしても碌なことではないだろう。

だが梅原とて、ただの加害者ではない。
元を正せば、英子の人を人とも思わぬ侮辱が原因だ。
確かに手を出したことは悪いが、その償いは会社を辞めることで終わっている。

梅原はそう自らを勇気づけると、講演が始まったメイン会場を後にした。

つづく…

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『捨 て 犬』  第九章

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(九)

九〇九号室。
落ち着いた色合いの絨毯が敷き詰められた廊下の奥に、そのプレートが掛けられた部屋があった。

薄暗い照明の下、梅原はドアの前に佇んでしばらく中の様子を窺ってみた。
だがさすがに一流ホテルだけあって、中からは物音ひとつ漏れてこない。

(俺はもう会社を辞めるんだ。何があったとしても、誰にも迷惑をかけることはない)

ややもすれば、鬼婆女医の英子に怯みそうな心を、梅原は懸命に奮い立たせた。

しかしその励ましは諸刃の剣で、同時に梅原の心の傷をより深々と抉った。

(別に俺がどうなったとしても、誰も困りはしないだろうしな…)

会社には梅原に代わる人材など掃いて捨てるほどいる。
二十五年間連れ添った妻にしても、保険金さえは入れば、むしろ梅原がいない方が楽だと喜ぶに違いない。

梅原は路地裏で行き倒れた捨て犬のような心境で、投げ遣りに部屋のベルを押した。

重厚なドアが開き、英子がその隙間から顔を出した。
シンポジウム会場で見た時と変わらない、美しい化粧を施した英子だった。

「うっ……!」

ワイングラスを片手に立つ英子の姿に目が釘づけになった。

「入りなさい」

梅原の動揺を小馬鹿にするような物言いは、いつも診察室で聞いている命令口調そのものだった。

英子はバスローブをまとっただけの姿だった。
厚手の記事の上からでもわかるほどの、ふくよかに迫り出した胸元と尻は、完熟した人妻らしいボディラインを描いていた。

その上、バスから出たばかりらしく、短めな裾から覗くむっちりとした太腿が、桜色に火照って艶めかしい。

戸惑いを隠せない梅原に、英子はワイングラスを高々と揚げて見せた。

「よく来たわね、暴力MRさん」

その皮肉たっぷりな言葉で、ロマンチックな熟女への妄想は一気に霧散した。

「何かご用ですか?先生」

梅原は冷静さを取り戻すと、執事のような丁重さで女王様に尋ねた。
英子は赤ワインで口唇を濡らし、優雅に含み笑いをした。

「会社を辞めるらしいわね」

「…ええ、理由はどうあれ、先生に手をあげたことを反省しています。男としてけじめをつけることにしました」

英子は背を向けて、窓に反射して映る梅原に問いかけた。

「でも再就職先はあるのかしら?」

「…それはこの先考えます」

「あなた、確かもう五十歳でしょう。その年でこの厳しい時代に、再就職先なんて簡単に見つかるの?」

「……」

英子はワイングラスをテーブルに置き、ゆっくりと梅原に歩み寄ってきた。

「ふふ、図星だったみたいね。実はあの雪の日、あなたが帰ったすぐ後、おたくの支店長に電話したの。あなたを辞めさせなければ、今後新東京薬品の薬は一切使用しないし、今日のシンポジウムも欠席するってね。そうしたらおたくの支店長、すぐ梅原を辞めさせますって約束してくれたわ」

「な、何故そんなことを…」

つづく…

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『捨 て 犬』  第十章

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(十)

梅原は拳を握り締めた。
まさか女医と支店長が、梅原を退職させるために口裏を合わせていたとは思ってもいなかった。
しかしそれならば、部屋へ呼んだ理由は自ずと明らかになってくる。

仕返しだ。
辞職して途方に暮れている梅原を呼びつけ、嘲り笑って嬲ろうという趣向に違いない。

梅原は腹を据えた。

(少しお灸を据えてやるか)

今や天涯孤独ともいえる状況の梅原に、恐れるものは何もない。
仲間のMRたちへの置き土産にも、英子の陰湿な弱い者いじめをやめさせたい。

梅原は近づいてきた英子の後ろ襟をつかむと、そのままベッドに放り投げた。

「キャッ!」

英子は三十八歳とは思えない可愛らしい悲鳴をあげ、うつ伏せのままベッドの上に倒れこんだ。
梅原はそのまま英子の首筋を押さえつけ、バスローブの裾を捲り上げた。

ブルーのショーツを穿いた尻が丸出しになった。
その小さな三角形の縁からは、白い柔肉がむっちりとはみ出している。
英子が足をばたつかせるたび、その肉厚な尻はブルンブルンと弾んで揺れた。

「先生、こんなに魅力的なお尻をしているのに、どうして女らしい優しさを持てないんですか?」

梅原はむらむらする欲情を抑えながら、初めて英子に意見した。

「わがままばかり言わないで、少しは人の心を思い遣る気持ちを持ちなさい」

うつ伏せの耳元でそう囁くと、戒めと辱めを与えるため、ピチャッと剥きだした尻を軽く叩いた。
英子の体がピクッと震えた。

(さあ、後は逃げるが勝ちだ)

恨みつらみもすっかり晴れた梅原は、ベッドから下りてあたふたとドアに向かった。

「ダメ、帰っちゃダメ」

突然背後から聞こえた切羽詰まった声に、梅原は驚いて振り返った。

見ると、目に涙を湛えた英子が、髪を振り乱してばたばたと駆け寄ってくる。
慌てた梅原は急いでドアを開けようとしたが、追いついた英子に腕を力任せに引っ張られ、そのまま室内に連れ戻された。
バランスを崩した梅原はふらふらとよろけ、英子と抱き合うようにベッドへ倒れ込んだ。

英子は、まだ何が起こったかわからずに呆然とする梅原の首に抱きつき、何度も何度も熱い口唇を重ねてきた。

(な、何だ?)

そして動揺する梅原の腕の中に、英子はするっと体を滑り込ませてしがみついた。

「強い男に抱かれたい…」

英子は弾む息の合間、伏し目がちにそう呟いた。
女傑らしからぬ告白だった。 
梅原は英子から初めて女の匂いを嗅ぎ取った。

つづく…

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プロフィール

紅殻格子 

Author:紅殻格子 
紅殻格子は、別名で雑誌等に官能小説を発表する作家です。

表のメディアで満たせない性の妄想を描くためブログ開設

繊細な人間描写で綴る芳醇な官能世界をご堪能ください。

ご 挨 拶
「妄想の座敷牢に」お越しくださいまして ありがとうございます。 ブログ内は性的描写が多く 含まれております。 不快と思われる方、 18歳未満の方の閲覧は お断りさせていただきます。                
児童文学 『プリン』
  
『プリン』を読む
臆病で甘えん坊だった仔馬は、サラブレッドの頂点を目指す名馬へと成長する。
『プリン』
だが彼が探し求めていたものは、 競走馬の名誉でも栄光でもなかった。ちまちました素人ファンタジーが横行する日本の童話界へ、椋鳩十を愛する官能作家が、骨太のストーリーを引っ提げて殴り込みをかける。
日本動物児童文学賞・環境大臣賞を受賞。
『プリン』を読む

作 品 紹 介
※ 小説を読まれる方へ・・・   更新記事は新着順に表示されますので、小説を最初からお読みになりたい方は、各カテゴリーから選択していただければ、第一章からお読みいただけます。
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